一澤帆布

一時、営業を休止していた「一澤帆布工業」より分かれた、一澤信三郎氏が発表したのが、新ブランド名「一澤信三郎帆布」と「一澤信三郎かばん(かばんは、左が布で、右が包)」です。

一澤信三郎帆布製品の特色

『京都市東山知恩院前上ル 一澤帆布製』と縫い込まれた赤枠のタグで有名な、一澤信三郎帆布製のかばんは帆布(はんぷ)と呼ばれる綿と麻製の厚布で作られています。その実用性の高いデザイン、豊富な色、抜群の耐久性などを特色としていて、最近ではブランド品として若者に人気を集め、写真や登山、地質調査などの機材運搬用のかばんとしても根強い支持を受けています。一澤信三郎帆布製のかばんの販売は京都市東山区にある一澤信三郎帆布のみに限られています。

一澤信三郎帆布製品の歴史

初代一澤喜兵衛(嘉永6年生まれ)が経営していた西洋洗濯(クリーニング)や楽団KYOTO BANDが始まりであるといわれています。一澤帆布は1905年に創業し、大正時代になって自転車の普及にともない、自転車のハンドルに掛ける道具袋の需要が生まれ、薬屋、牛乳屋、大工、植木屋、酒屋などの職人用カバンの製造を行っていました。戦後はリュックサックやテントなども手がけるようになり、現在の一澤信三郎帆布は、職人用カバンを基にした各種のかばんで知られるようになっています。

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新ブランド「一澤信三郎帆布」

一澤帆布工業」の相続を巡って、社長を解任された前会長の三男、一澤信三郎氏が発表したのが、新ブランド名を「一澤信三郎帆布」と「一澤信三郎かばん(かばんは、左が布で、右が包)」です。

一澤帆布工業

2006年、「一澤帆布工業」相続を巡ってのトラブルにより一時営業を休止していた、「一澤帆布工業」ですが、創業一族の一澤信三郎とそれまで勤めてきた職人は退社して、同様のかばんを取り扱う一澤信三郎帆布を設立しました。一方、一澤帆布工業株式会社を継いだ長男・一澤信太郎は新たな職人と素材をもって2006年10月より営業を再開しています。

一澤信三郎帆布誕生の経緯

2001年3月に前会長である一澤信夫(三代目)が死去しました。その際に会社の顧問弁護士に預けられていた信夫さんの遺言状が開封されました。この遺言状(所謂「第1の遺言状」)は、1997年12月12日付で作成されたもので、その内容は信夫保有の会社の株式の67%を社長(当時)である三男の信三郎さん(元朝日新聞社)夫妻に、33%を四男の喜久夫さんに、銀行預金のほとんどを長男の信太郎さん(元東海銀行行員)に相続させるというものであったそうです。

ところが、2001年7月。この遺言状の開封から4ヶ月後に、長男の信太郎さんが、自分も遺言状を生前に預かったとして別の遺言状(所謂「第2の遺言状」)を持参しましあ。この遺言状は、2000年3月9日付で作成されたもので、内容は信夫さん保有の会社の株式80%を長男の信太郎に、残り20%を四男の喜久夫(家業に関わっていたが1996年退社)に相続させるというものでした(この通りに相続すれば、信太郎さん、喜久夫さんの両名で会社の株式の約62%を保有することになります)。

民法(民法1023条)では古いものよりも新しい遺言状の内容を有効とすることになります。通常はその2000年3月の遺言状が有効となるのですが、2通の遺言状の内容が全く異なることから、「第2の遺言状」の真贋に三男の信三郎さんが異議を唱えることとなり、その決着については法廷の場に持ち込まれました。

三男の信三郎さんは、「第2の遺言状」を作成して時には、信夫さんは既に脳梗塞のために要介護状態で自力で書くのが困難であった事や、「第1の遺言状」が毛筆で巻紙に書かれていて、実印が押されているのに対して、「第2の遺言状」は便箋にボールペンで書かれていること(但し、法律上用紙は関係ありません)、押してある印鑑が「一澤」ではなく信太郎さんの登記上の名字「一沢」になっていることなどから、当時の社長であった三男の信三郎さんは、信太郎さんが保有していた「第2の遺言状」の無効確認を求めて提訴しました(故・信夫さんの弟で、当時専務であった元社長・恒三郎さんも同様の疑問を投げかけているそうです)。

しかし裁判では、信三郎さんの主張は「無効と言える十分な証拠がない」として認められずに、2004年12月に最高裁判所で信三郎さんの敗訴が確定しました。これを受けて、長男の信太郎さんと四男の喜久夫さんは、信太郎さん側の「第2の遺言状」の内容に従って、一澤帆布工業の株式約62%を取得しました。

これに対して信三郎さんは、最高裁の判決がでる前の2005年3月には別会社となる有限会社一澤帆布加工所(京都府京都市東山区進之町584、西村結城代表取締役)を設立しました。その際に一澤帆布工業の製造部門の職人全員となる65人が、長年一澤帆布工業の社長であった信三郎さんを支持するかたちで同社へ転籍しました。一澤帆布加工所は、一澤帆布工業から店舗と工場を賃借する形で製造を継続していました。

一澤帆布工業の筆頭株主となった信太郎さんは、2005年12月に臨時株主総会を行い、一澤信三郎社長(当時)と取締役の全員を解任し、代わって自身が取締役社長となりました。そして、喜久夫さんと信太郎さんの娘も取締役へ就任しました。

信太郎さんはさらに、店舗と工場は信三郎さんの一澤帆布加工所が使用していることから、京都地方裁判所に対して店舗と工場の明け渡しを求める仮処分申請を行いました。その申請は認められることとなり、2006年3月に強制執行されました。その際には、信三郎さんだけでなく、一澤帆布加工所へ転籍した職人たちも共に店を退去しました。その結果、一澤帆布工業は事実上、製造部門を失った形になり、2006年3月に一澤帆布店は営業を休止しました。

一方、信三郎さんの一澤帆布加工所は別に工場を確保し、2006年3月に「信三郎帆布」と「信三郎かばん(かばんは、左が布で、右が包)」を新たなブランド名とすることを発表しました。新設した販売会社である株式会社一澤信三郎帆布から、一澤帆布加工所が製造の委託を受ける形で営業を開始しました。その後、2006年4月に、「一澤信三郎帆布」を一澤帆布店前の道路を隔てた斜向かいに開店しました。

信太郎さんのものとなった一澤帆布工業については、2006年3月以降、営業を休止していましたが、新たに職人を28人確保し、材料である帆布の仕入先を倉敷帆布の納入先の一つである岡山県の業者からに切り替え、一澤喜久夫さん(四男)の技術指導の下で、従前の帆布かばんを再現し、2006年10月に営業を再開しました。一澤信三郎帆布については、一澤帆布店の模倣品だとして批判しているそうです。

これに対して、斜め向かいに店を構える形の信三郎さんは、判決確定後も「遺言状は贋物である」「(2通目の)遺言状の内容は故人の人格を踏みにじったもの」などという公言を繰り返していて、この騒動の顛末に対して、不満感を表明しています。 また、これまで鞄生地を納めてきた朝日加工は信三郎さんを支持して一澤帆布との取引を拒否し、一澤帆布へランドセルの製造を委託していた同志社小学校についても、今後は一澤信三郎帆布に委託することを表明しました。

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